みなさん、こんにちは!メイプル会計事務所・南伸一公認会計士税理士事務所のみなみです。
前回の「麹町と会計事務所 第1回」では、麹町には会計事務所が多いことと、その理由について書きました。麹町に会計事務所が多い理由は、会計事務所のお客様となる会社等が多数存在している(麹町やその周辺エリアが商業地として栄えている)ためでした。
そこで今回の第2回目では、なぜ麹町が商業地として繁栄しているのか、について歴史的に考えていきます。
麹町繁栄の礎となった江戸時代
現在の麹町の繁栄の基は江戸時代に遡ります。
時は天正18年(1590年)8月1日、徳川家康が始めて江戸城に入城します。その際、府中から甲州道を通ってきたとのことなので、麹町を通って、当時はまだなかったであろう半蔵門の辺りから入城したものと思われます。1590年といえば、関ケ原の合戦(1600年)や江戸幕府開設(1603年)よりも前なので、戦国時代ということになりますね。
その結果、麹町の東隣に江戸幕府という日本の政治・行政・司法の中枢機関ができ、そこで働く旗本が麹町北隣の番町に居住することになり、親藩・譜代の大名屋敷が麹町の南隣の隼町、平河町、紀尾井町の辺りに建てられました。
そうすると、そこで暮らす人々のために生活物資が必要となります。そのため様々な商品が売買されるようになり、それを商う商人たちが麹町一帯にお店を構えた結果、町人町ができあがり一大商業地となったわけです。
江戸時代には大きな戦もなく平和を享受できた時代だったため、麹町は江戸時代を通じて繫栄しました。つまり、麹町はすでに江戸時代から今に勝るとも劣らないビジネスの街だったということです。当時の麹町は、日本橋の商家に対抗する勢力だったと言われています。
東京の中心となった明治時代
江戸時代が終わり明治に元号が変わった後、江戸城内外で暮らしていた旗本等が、最後の将軍、徳川慶喜に従って静岡(駿府)に移動したことにより、麹町も一時期、活気を失ったようですが、すぐに新政府の役人たちが江戸城改め皇居周辺に暮らすようになったので、引き続き、商業地であったようです。
そして明治11年(1878年)に施行された郡区町村編成法によって、麹町区が誕生しました。麹町区には、今の麹町は当然ですが、それ以外に大手町、有楽町、内幸町、霞が関、永田町、平河町、飯田橋、九段下なども含まれていました。
戦後の麹町
戦後1947年に麹町区と神田区が合併して、今の千代田区が誕生しました。
千代田区は、戦前の麹町区を引き継いで、今でも政治、行政、経済の分野において日本の中心地として存在しています。千代田区には令和元年の調査によると54,520の事業所が存在しているとのことですし、千代田区大手町には大企業の本社が多数あるので、こういった会社とともに、会計事務所の数も増えていき、会計事務所も発展していったといえます。
余談ですが、昭和49年に開業した有楽町線(埼玉県和光市から池袋、麹町、有楽町、新富町、豊洲など、埼玉や東京の北部から南東部に延びる地下鉄の路線、開業当時は池袋から銀座一丁目まで)について、当初、路線名を決める際に公募が行われ、その際、最も多かった名称が「麹町線」だったそうです。
しかし、「麹」という字が難しいとのことで、今の「有楽町線」という名前になったというエピソードがあります。
江戸時代より前の麹町は?
冒頭で述べたように、麹町の発展は徳川家康の江戸城入城に始まるので、江戸時代より前の麹町に関する記述はあまり残されていないようです。ですが、江戸時代より前の麹町に関する2つの事例を見つけることができたので紹介しておきます。
事例1
東京タワーのたもとに位置する芝増上寺は徳川将軍家と深いゆかりがあり、歴代将軍のうち6人のお墓があることでも有名です。その増上寺ですが、元々は芝ではなく、現在の平河町から麹町にかけての土地に1393年に開かれたそうです。1393年なので室町時代の話になります。
事例2
麹町を散策していると「貝坂」という通り名があります。この記事を書いている際に、ふとそのことを思い出して、気になって調べてみたのですが、やはり名前の由来は、昔、貝塚があったことに由来しているようです。そもそも麹町の辺りを昔は「貝塚」と言っていたこともあるようです。
前述の増上寺のホームページでは、当時の平河町から麹町にかけての土地を、「武蔵国豊島郷貝塚」と書いています。貝塚があったということは、縄文の昔から人々が生活していた土地だったということがわかります。
つまり、縄文時代から麹町には街としての環境が備わっていたと言えるのではないかと思います。現在の発展の基礎は、すでに縄文時代からあったというと言い過ぎでしょうか。
町人たちによって生まれた日本独自の簿記とは?
さて、話を江戸時代に戻すとともに、会計に関する話もしておきます。
現代では、会社であれ個人事業であれ、事業で行われた取引を帳簿に記録して、財政状態や経営成績を明らかにします。その作業を行っているのが経理という部署であり、経理を設けていなければ、会計事務所に依頼するなどして帳簿を作成することになります。
この帳簿記録という作業は通常、複式簿記という概念に従って行います。この複式簿記が日本に入ってきたのは明治維新のときです。かの福沢諭吉先生が、「帳合之法」という本を作り、西洋の簿記、すなわち複式簿記を紹介しました。
それ以降は複式簿記で帳簿記録を行うことが一般的になったわけですが、それ以前はどうだったのでしょうか?言い方を変えると、江戸時代の商人たちは、帳簿記録を行っていなかったのか?行っていたとすると、どのように行っていたのか?ということです。
江戸時代の商人たちも複式簿記に類する記帳を行っていました。「大福帳」という言葉を聞いたことはないでしょうか?時代劇などで番頭さんがお店の奥のほうに座って、細長い長方形の綴りに何かを書き込んでいるシーンを見たことがある方もいるのではと思うのですが、その綴りがいわゆる「大福帳」という帳簿です。
日本独自のシステムで、借方・貸方という概念はないものの、現金の増減だけを追いかける単式簿記ではなく、取引先ごとの売掛金や商品の増減残高なども把握できたそうです。
大福帳による複式簿記的思考があったからこそ、明治になって複式簿記が違和感なく広がったと考えられます。きっと、江戸時代の麹町の商人たちも、大福帳を用いて帳簿記録を行っていたことでしょう。
さいごに
以上で「麹町と会計事務所 第2回」は終了となります。今回は、麹町の歴史を中心にお話しました。そして、江戸時代の商人たちも大福帳という記帳システムで帳簿記録を行っていたということで、会計との関連性にも少し触れました。
次回でこのシリーズも終了となりますが、最終回は番外編ということで現代の麹町を紹介します。最後までお読みいただき、ありがとうございました。